「ニルヴァーナからカタストロフィーへ —松澤宥と虚空間のコミューン」

 

関連企画  ギャラリー・トーク 「アートと宗教」

ロジャー・マクドナルド(AIT副ディレクター)x 嶋田美子

(2017年4月1日 オオタファインアーツ 東京港区六本木)

 

池田:本日はお足下の悪い中沢山の方においでいただき、ありがとうございました。AITの副代表ロジャー・マクドナルドさんをお迎えして、本展キュレーターの嶋田美子さんと展示を見ながら「アートと宗教」というテーマでお話ししていただきたいと思います。ではよろしくお願いいたします。

 

嶋田(以下S):今日はありがとうございました。今日は展示を見ながらということで、テーマが「宗教と芸術」です。ロジャーさんのことは前からもちろん存じ上げていたんですけど、松澤に興味があるということは最近まで知らなくて・・・。

 

マクドナルド(以下M):私は(大学)院の専門が宗教だったんですね、それで博士に行くと同時に美術史に行くんですけど、それを繋げるような研究をしていて、近代芸術と神秘主義の関係を、マーク・トビーというアメリカの神秘主義の作家で見ていたんです。そういうことに興味がある中で、松澤さんの事を10年ほど前に見た時に、「あ、こういう人がいる」とすぐアンテナが立ったのですね。そしてずっと気になっていたのですが、その当時は英語での(日本語は読めないので)資料はとても少なかった。ほんのこの数年ですね、英語の文献がどんどん増えて来て、すごく松澤さんがまた美術史の中輝いて来たという印象があります。なので、まあきっかけはそういう私の個人的な研究から出て来て、眼に留まったということです。

 

S:マーク・トビーといえば、松澤さんがフルブライトでアメリカに行った時に確か会っているのですよね。

 

M:そう、トビーって、ご存じない方もいるかもしれませんが、ジャクソン・ポロックのちょっと先輩くらいのアメリカの抽象表現のアーティストで、1934年に日本に来ているんですね。で、そのへんの研究を博士でやっていて、当時はー20年くらい前ですけどーあまりそのへんの研究というのは無くて、特にトビーはバーナード・リーチさんと一緒に中国経由で来日するんですね、戦前の話です。当時、日本の思想に興味を持つというのはヨーロッパをはじめとして多くあるのですけど、実際に体で、現場まで行った人がいないかなと探していたとき、リーチをはじめとして、トビーという人が出て来たんですね。で、その研究があって、トビーはまあ、戦後アメリカのアーティストでよくあるパターンと言いますか、禅というキーワードが出て来て、パイオニア的に禅の事をアーティストとして日本で学んで、実際に京都の外れにある禅寺に泊まったりもしています。そこで3ヶ月くらい修行し水墨画を学び、そしてアメリカ西海岸シアトルのポートランドに長い事住んでいて、ほとんど隠遁生活に近いような、Pacific Northwest Mysticsという集団の一員だったんですけど、松澤さんもシアトルに行った時行きましたし、実は草間さんもアメリカに行った時、ファースト・クサマ・ショウというのは西海岸なんですよね、シアトルで個展があって。その画廊はマーク・トビー、モリス・グレイブス、ケネス・キャラハン、いわゆるPacific Northwest Mysticsの画廊でした。

 

S:トビーさんはその個展に多少関わったのでしょうか?

 

M:そうね、関わったと言うか、彼が日本にいたということは多くの人が知っていて、「会いに行けば」ということになったのかも、まあ、これは想像ですけど。松澤さんも会っている、草間さんも、ということは、「アメリカに行くんだったら、マーク・トビーのところへ行けば」というかんじで、ノースウエスト・コーストから入っていく流れがあったのでは。ちょっとそれに関しての研究はまだ無いのですが。

 

S:草間さんも50年代に松澤さんがアメリカに行った頃、アメリカに行きたくて、「フランスからはビザがおりたのだけど、私はアメリカに行きたい、どうしたらいいでしょう」というような手紙を松澤さんに送っているので、アメリカに行く前に、どこに行ったらいいか、誰に会ったらいいかということはいろいろ松澤さんに相談していたと思います。

 

M:で、トビーの名前が出て来たのかもしれない。

やっぱり松澤さんで一つ宗教的に面白いなと思うのは、Non-Zenですよね。禅ではなかったのがまず興味深いな、と。どちらかというと、密教とかタントラとか、エソテリック・ブディズム(密教)なほうからきているので、そこがまず興味深い。戦後、特にアメリカの前衛の中では多くのアーティストは禅のほうに重きを置く中で、エソテリックにはジョン・マクロッカーとか、ほんの数人、マンダラとかに興味のある作家が西海岸にもいるんですけど、歴史の中で書かれるのはほとんどみんな禅、禅、禅、になってしまいます。松澤さんはそういう意味でも興味深くて、どういう人なんだろうというのはずっとありました。

 

S:松澤の神秘性や宗教性というのは、今回のカタログの最初のエッセイでウィリアム・マロッティさんも書いていらっしゃいますけど、そのエソテリック・ブディズムというものを、オーセンティック(純正)な、日本的なものとしてとらえるべきではない、というのがあるのですが、というのも、晩年に非常に松澤が神秘化されすぎたということもあるので。ですから、カタログでは神秘性ということはわざと触れていないところがあります。ですから、今日はあえてその辺のところをロジャーさんに語っていただきたいと思いました。

では、展示を見ながら、ということで。各セクションは1から9まで、カタログに対応するようになっています。まず、この「プサイの部屋」の部分ですが、松澤は1964年に「オブジェを消せ」という声を聞いたのですが、その前にオブジェの集積がありまして、これは「プサイの部屋」の2001年頃の映像です。今は少し変わっていますけど。64年以前のオブジェなどが集積されています。これは、ロジャーさんご覧になっていますよね?

 

M:去年の夏かな、財団ができて、メールを出して、来てくださいということで行ったんですけど、正直言って最初の印象は、クルト・シュヴィッタースのメルツバウに行ったらこんな感じだったろうという、すごく美術史的な感想かもしれないですけど。シュヴィッタースも大好きで。なにかメルツバウ的なセイクリッド・スペース(神聖な空間)に入っていく感覚があって。確かに、いろいろなものがそのまま(S:「多少は変化がありますが」)ええ、でもほぼそのままで、光のぐあいとか、埃がとか、行かないとわからない様子があって、メルツバウも実際には匂いが強烈だったとか書いてあるのですが、何か日本のメルツバウ的な、グラウンド・ゼロ的なところがあって。非常に短い、30分くらいしかいなかったんですけど、ここで彼が何をやっていたのだろうかとか、いろんな事を想像していましたね。一種のトレーニング・ルームというか、別に作品を作るというより、「道具」に囲まれているという感覚が非常に強くあって、もしかしたらそれはエソテリック・ブディズム的な要素もあるのかなと思うんですけど、こう、いろんな運動とかプラクティスをはじめるための装置と言うか、「道具」がそこでアーカイビングされていて、必要に応じてパーツをとってきて何かを作る、みたいな、そういうところでもあるかな、という気がしましたね。

S:のちに「ニルヴァーナ集積」ということもありましたけど、かなり早い時期からそういう集積を、アーカイブを作るということが松澤さんの中にあったと思います。やっぱりこれだけの「もの」が集積されて、飽和状態になって、それで64年に「オブジェを消そう」というのが、非常に面白いですね。これがあってやっぱりこっち(オブジェの消滅)に行ったのではないかなと思います。

 

M:今回の展示、1から9ですよね、これは嶋田さんの研究の中で徐々に出てきたものなのですか?それともこのアーカイブに取り組んでから出てきたものですか?

 

S:まあ、アーカイブ化を考えてきてからですね。

 

M:これまでも戦後美術の研究をしてきているわけですが、アーカイブということに深く関わりはじめてからこのようなチャプターができたのですか?

 

S:やはりこの一つの流れを作ろうと。コレクションとアーカイブは違いますよね、コレクションは単に物の集積ですが、アーカイブはそこに一つの文脈を作るということだと考えて、一つには年代順ですけれども、次のこれ(ハガキ絵画)はメソドロジーによるという、いくつかの側面から、一つの動きというか流れを浮かび上がらせようとしました。

 

M:松澤さん自身は、宗教観というのはどうなんですか?

 

S:やはり、密教の影響というのは、年譜にもご親戚に密教の関連の方がいらっしゃるとあります。(ここで松澤家の久美子さん、洋子さんをご紹介)ご親戚にやはり宥の字がつくお坊さんがおられたと・・・何教ですか?

 

松澤久美子さん:真言宗です。

 

S:宥の名前はその方から?(久美子「よくわかりません」)でもそういう方の影響もあったと自身で書いていらっしゃいますし、あと、密教系の本も沢山読まれたようです。あと、超宗教といいますか、神秘主義的なものにも興味があったようですね。

 

M:SFみたいな・・・アメリカにいる間はそういうラジオ番組にはまったみたいですね、UFOとか。

 

S:ニュージャージー州の局から放送している番組で、私がPS1でニューヨークにいた時まだそういうのをやってたのを聞いた事があるんですよ。ディスカッション番組で、UFOを見たとか言う人たちがコールインしてディスカッションするという。夜の11時頃から朝の5時頃までやっているんですよ。松澤さんもそういった番組にはまって、ここにあるアンデパンダン・アート・フェスティバルという、1965年に開かれた通称岐阜アンパンと呼ばれる展覧会ですけど、ここで松澤は「現代において芸術は可能か」というタイトルで講演をしているのですね。その内容は全部松澤財団のホームページに上げてありますけど、その講演も、まず、観客に向かって「この中に、3人宇宙人がいます」と言うんです。なぜかというと・・・ということからはじまって、眼に見えない、現在の美術や芸術を越えたところに価値があるんだ、と。眼に見えるものは否定せよ、というアジテーションで終わるんです。

 

M:時代的にヨーロッパでも、アメリカでも、ブラジルとか南米の前衛美術の流れと一致するところもありますよね。ルーシー・リッパードをはじめとするデ・マテリアライゼーション(非物質化)という動きもあるでしょうし、

そういう時代のツァイト・ガイスト(時代精神)のようなもの、匂いのようなものも当然感じていたわけでしょうね。

 

S:あと、かなり早い時期からサイバネティックスとか、そういったコンピューターを使ったインフォメーションの集積を美術と関わらせるとか、ジャンルを超えたアプローチがありましたね。一般意味論のジャーナルも50年代から購読していましたし。一概に神秘主義だけということではなくて、インフォメーションテクノロジーとか科学的な部分を先取りしていたところもあります。

 

M:そうですね。そしてあの、嶋田さんが去年の秋に諏訪エリアの松澤さんに関わる場所のツアー(「松澤ゆかりの地バスツアー」)を企画して、それに参加したとき、現場—荒野とか、山の中に行くことができました。そこで肉体的に感じたのが、やはり、本とか言葉だけで読んでいると、そういう(神秘的主義な部分のみの)解釈はありがちだなあと思ったんですけど、実際に地理学の地史とか、その時縄文学の先生が来てくれて、松澤さんの縄文文明についての知識が半端ではないなと思って。これ実は相当ユニークな、アーティストが作り上げようとしたトータル・コスモロジーとか、トータル・ワールド・システムというものが、実はあったのかなというのがあって、単なる一つのものだけではないですよね。

 

S:そうですね、私もあの時、「荒野のアンデパンダン」の舞台である七島八島に行ってみて、行く前は「湿地帯」と書いてあったので、もっと小さくて暗い、沼地のようなところだと思って行ったら、霧ヶ峰をずっとバスで上がって行って、アーチのようなところをくぐると、パアーッと明るい風景が広がっていて、それが全部湿地帯なんですね。そこが何千、何万年もの間苔が堆積して、それがスポンジのようになって水が溜まっている。ですから縄文時代にはそこが聖地というか、そこが命の泉であると、そしてそこに市が立ったりしていたというのを聞いて、あの明るさというのはとても印象的でした。

 

M:そのツアーの後、いままで全然繋がっていなかった、例えばロバート・スミッソンとかランド・アートの人たちとの関係も想像しやすくなったし、ジオロジーとかジオグラフィーとかランドスケープとかいったことも実は松澤さんの作品の中では非常に重要な位置を占めていたことがわかった。神秘主義って、非物質的なものとされがちですけど、意外に基盤がしっかりとあって、ルーツに根ざしていると言うか、地に足がついているという感覚がすごくしました。

 

S:松澤自身が、フルブライトに行ったということは当時非常に名誉なことですから、そのまま帰って東京に行ったら大学教授なりなんなりにはすぐなれたと思うんですけど、そのまま諏訪に戻ってきて、それから一生諏訪に住んで夜間高校の数学の先生をしていたんですよ。ですから、諏訪という地にすごく思い入れがあったのでしょうね。

 

M:そして諏訪大社の、ご家族とも氏子でいらっしゃるし。そのトポスとの関係は、実にその作品を語る時に、完全に中心的なところにあるなと非常に感じます。今回の展示の中でも、山の中で瞑想台をつくったり・・・。

 

S:(「アート・アンド・プロジェクト」部分を示し)ここに諏訪の地図がありますけど、これが諏訪湖ですね。この間田中基さんという縄文の研究者がおっしゃっていたんですが、諏訪湖の周りには縄文のサイトが非常に沢山あるんですね。あと、ここはフォッサマグナの通るところで。

 

M:地震の活断層ともなっていますね。

 

S:ええ、それも後の作品に反映されていますね。そして下諏訪駅からすぐ、中山道に面してお宅があります。近くに諏訪大社の秋宮があって、そこから上がって行ったところに瞑想台があります。これはもともとスタンレー・ブラウンが「全世界の各地に1平米の土地を求める」というプロジェクトをやったとき、朝日新聞に広告を出して、それを見た松澤さんが自分の土地を1プサイ円で売ってもいいということで、ここに領収書があります。

(瞑想台は)ここを上がって行ったところにあって、近くまで行けたんですが・・・。(実際には瞑想台は崩壊して既に無い)

 

M:更に上に行くと、さっきの霧ヶ峰(S:「七島八島がこの辺です」)本当に半径30kmくらいの中で、いろいろ重要なプロジェクトや儀式が行われていたということがわかります。実際に足を運んでみるとまた感じるものが違いますね。

 

S:そうですね、この辺は「音会」の他にも、羽永光利さんの撮った写真で、御射山の社のところから「人類よ消滅せよ」の幟を下げているものもあるのですが、このへんにも泉というか、きれいな水を湛えた池があったり、清水の音が聞こえたりします。

 

M:こういう場所で「音会」また「瞑想台」で、松澤さんだけでなく他のアーティストたちが集まって、これは美子的に見ると一種の修行みたいなこと?

 

S:「修行」という言葉は参加したアーティストで使っている人もいますね。

 

M:別に「アート」ということもできるでしょうけど、もうそれを越えた領域かもしれませんね。

 

S:そうですね、「アート」ということは、「美術という幻想の終焉」でもう終わりにしちゃっているから。これ(1969年)以後は、もうみなさんそういうところを越えてというか、そういう志を一にした人たちが集まってきたと思うのですけど。

 

M:今回この展覧会で美子がまとめてくれた本で、とても歴史的に面白い部分が、日本でも起きていたコミューン文化、ヒッピー文化との関係性。これはすごく新鮮でしたね。

 

S:その辺の70年文化というのが・・・。今まで60年代、68年まではいろいろ語られたり、文化史にも入ってきています。特に60年代中頃の日本のアヴァンギャルドというのが海外でも注目されていますけど、その後の70年代初頭頃のヒッピー文化は、日本でもアメリカでも(ヨーロッパはわからないですが)ちょっとバカにされているような感じがありますよね。

 

M:完全に美術史的にはそうですね。作家としてももうその時代は「恥ずかしい」という意識があるみたいで、あまり公には言えない、そういう空気感はいまだにあるような気がしますね。

 

S:あと、日本では特に連合赤軍の事件でもうムーブメントは終わったという歴史観が非常に堅固にあるので、それ以後のものは80年代までほぼ「無し!」みたいな。ただ、そこのところがいかに豊かだったか、ということを私は言いたい。

 

M:そういう文化現象の中で私の解釈で重要なポイントは、direct experienceというか、個人が何らかの形で自分の主体に向かって行くというか、とにかく「直接体験」的なものが重視されていたのではないかということです。それは心理学に入っていくとか、ドラッグの使用であるとか、音楽とか、いろいろな方法があるのですが、とにかく直接の体験というものが鍵だと思うのですが、それは本当に松澤さんの作品を考える上で常に出てくる問題で、これにアート、ミメシス、レプレゼンテイション、何かの表象というギリシャ的な考えを持ってくると、direct experienceをやっているのは作家だけであって、第三者、われわれもそこを体験できるのかというのが、これは私が松澤さんを考える時にコア・クエスチョンとして残るんですね。実際に「音会」や「瞑想台」に参加していた人たちはdirect experienceというもののドメインにいるんですけど、時間が立つ、どこかで展示されるというのは、二次体験で、どんどんどんどん、それは弱くなるのか、それとも、松澤さんとしては装置として我々にいろんなものを残して行って、こっちにその装置をアクティベーションする義務があるのでは、と私は考えるんですけど、そういう意味では密教のいろんな装置のように、我々鑑賞者にある責任も大きいのかな、と。

 

S:まさにそれを、このカタログの中でピーター・ファン・メイデンも論じていますけど、アート・アンド・プロジェクトのブルティンで松澤がやった一連のものでは、「あなたよ!」と呼びかけるんですね。文章がこのように書いてあるんですけど、他の作家の作品は各自のコンセプトを述べる感じなんですけど、松澤さんのは「あなたよ!」とまず呼びかけている。それによって読んだ人が何かの責任を持たなければいけないというものになっています。この最後にある「カタシズム・アート」というのも、「公案芸術」と言っていますが、

M:Catechism、カトリックの、問答ですね。宗教的な。

S:個人のアーティストの考えの表明であると同時に、読む人に解釈させるような装置になっていると思います。

 

M:これは多分20世紀の中でアーティストがやるということの難しさですよね。いわゆる世俗的な社会、日本とか、基本的にみんなが共通している宗教意識がインドとかと違って薄いところに、どこまでこれが通じるか、どこまでこれをもっていけるかという難しさは、20世紀美術全体の抱えている問題だと思います。文脈までも作らないといけない。作家一人がコスモロジー、鑑賞方法、テクニックまで作らないと、恐らく鑑賞者が迷ってしまう。

 

S:そうですね、そこで「難しい」で終わってしまう、ああ、松澤さんは難しいってことで。70年代から、80年代に入ってからも、いろいろな美術全集などに松澤さんの作品写真は入っているんですね、そして「日本の概念芸術の始祖」として紹介されている、でもそれ以上は「難解」というだけで、ほとんど解説らしいものはないんです。ですから、なかなか文脈が作れないと言うか、ここのところでわかる人はわかる、わからない人はわからない、というようになってしまう。

 

M:その中で松澤さんは自由の巾を作品の中においているような気がしますね、絶対こうです、とか、絶対的なものではなくて、パラメーターだけを提示していて、あとは探りながら、ご自由にというかんじが私はしているのですが、それがまた魅力の一つで、宗教と違って、巾があると言うか、自由度が高い。「音会」で行われていた不思議なパフォーマンスなども、それぞれが自由にやっていた。

(記録が数分途切れる)

S:(松澤は)・・・大いなる矛盾があるんですね。振れ幅が大きいところがあって、先日中村宏さんもいらして言っていたのですけれど、「松澤さんは矛盾しているところがすごい」と。そこが無くて、ただ何かを断定的に言って、文章で表すだけではドグマになってしまうけど、でも(松澤さんのは)そうなってはいない。

 

M:常に流動的だったというのがすごく強いところだったと思いますね。

 

S:(「ニルヴァーナ」部分に移動)そして、ここはニルヴァーナ展になるのですが、これはとてもたくさんの人が参加して、一日目は全館を使い、二日目はその半分、三日目は一つの部屋だけになって、四日目にはなくなってしまう、という展覧会でした。日本の作家の作品はあまり残っていないんですね、もしかしたら、水上旬さんのところにあるかもしれないんですけど。この14名の海外からの作家の作品は、松澤さんが全部日本語に訳してまとめてありました。それを一昨年頃に発見して、かなり重要な作家のものなので、ここに一つのパネルにまとめました。この頃のヨーロッパのコンセプチュアル・アートのありかたというのはどういったものだったのでしょうか?

 

M:まさに、さっきのdirect experience、より直接的にというか、間の余計なものは最小限にするとか、そういう考え方も一つあると思いますね。確かこの頃オランダにも、完全に禅をベースにして動いている小さいグループがあって、相当そういう宗教的な考えを引用しつつ、非常にシンプルな、ミニマルな、或はコンセプチュアルな作品を作っているグループも存在していたと記憶しています。

 

S:これはアート・アンド・プロジェクトとの関連ですけれど、松澤は1971年オランダに行って、個展もオランダでしています。オランダの前にスエーデンのストックホルムであった「ユートピア&ヴィジョンズ」という展覧会にも参加しています。 カタログ中にピーターさんも書いていますけど、オランダではかなり早い時期から東洋の、禅以外にも東洋思想に関心があったようです。プロヴォ(provocation)というムーブメントがオランダであったのですが、(M:「自転車のね」)ええ、(自動車に代わって)自転車をプロモートしたり。彼等の自然観は、そういうエコロジー的なものの見方を60年代始めから持っていて、それにもやはり東洋思想が大きな影響を与えたと聞きました。それは、60年代末のヒッピームーブメントよりかなり早くからオランダではあったようです。

 

M:確かに、時代的なものとして、ゼーマンのシンボリックな「態度が形になる時」展(1969)もあるので、美術の業界は大きく揺らいでいたのかな、という気もしますね。

 

S:これらの(ニルヴァーナ展出品の)作家も、かなり1970年の中原祐介による東京ビエンナーレ「人間と物質」、ゼーマンの「態度が形になる時」、アート・アンド・プロジェクトの一連の展覧会などに出品していた作家が多いですね。ただ、この「ニルヴァーナ」展は本当にアーティストの自主制作と言うか、草の根的な企画で、中原に多少は助言を受けたかもしれませんが、松澤さんが直接これらの作家に手紙を書いて、僕はこういうことを考えていると説明して、ニルヴァーナ展—これは多分日本で最初の純粋なコンセプチュアル・アートの展覧会だと思うんですがーへの参加を要請しました。すると、ほんとに皆さん熱意を込めて「わかった!参加するよ!」というかんじで作品を送ってくれたんですね。これは美術館企画でもないですし、実際にはアーティストがお金を出してスペースを借りたんです。他の、信濃美術館もそうですけど、企画でやってもらったことは一度も無くて、自分たちで事務局を作って、松澤さん、水上さん、春原敏之さん、田中孝道さんらが自腹で、郵送費なども全てお金を払って自分たちでやっていました。もちろん交流基金も無かったですし、そういうサポートが全くないところで、これだけの規模の展覧会を当時できたということがおどろきですね。やはりそれは時代精神なシンクロニシティがあったのではと思います。

 

M:次のセクション(フリー・コミューンの萌芽)も、まさにそれが発展して行って、さらに、諏訪のさっき話していたような、荒野の中へ入って行く。

その作家たちが松澤さんを中心として、儀式をしたりとか、スペースを作って行くというのが非常に興味深いですね。「音会」という、一種の音楽フェスティバルのような・・・そう言うとちょっとへんな気がしますけど・・・。

 

S:「コンサート」と銘打っているんですけど、全然コンサート的なものではないですね。

 

M:自然の音とか、それを聞いたり、勝手に音を作ったり。

 

S:音を作ったりとか。昨日カフェアリエのトークで、その前に撮った池田龍雄さんのインタビューを流しました。池田さんはまさに「音会」の現場にいた方で、そのお話を聞いたのですが、池田さんは新聞紙を丸めて親指の爪でこすると「ゲゲゲ・・・」という蛙の鳴く音がする、そういう音を作った、と。その他にも自分の心臓の鼓動を聞くというようなこともおっしゃってました。あと一つは古沢宅さんという、今も国立で「首くくり」のパフォーマンスをやっておられて、極限状態まで身体を追い込むようなことをしているのですが、「音会」の時には、鉛の板で身体を覆って、そのまま地中に潜って、全身に土を掛けられて、一晩中土の中にいたらしいんですよ(呼吸はチューブを通してしていた)。池田さんがおっしゃっていたのは、自分は夜熱が出て寝ていたら、夜の白々あける頃に「ぎゃーっ」という声がして、飛び起きて見ると、古沢さんが土中から飛び出してきて、体中から湯気が上がっているのを逆光で見た、という、非常に臨場感のあるお話をうかがいました。

 

M:サドゥーのような、厳しい修行をしていたのですね。

 

S:あと、水上さんは、ここにハガキがありますけど、「音会」に来るまで断食をしていて、ここで初めて京都から持ってきた水を流し、その音を「音会」へ貢物としたそうです。それぞれが、独自に、修行的なことをした人もいますし、藤原和道さんは自分の「音響標定」の大きな木の作品を持ってきて、そこで音をたてたり。そういうふうに楽器を作って音を出した人もいたのですが、各自ばらばらにやっていました。ここには一昼夜いたので、まずここに集まって沐浴し、食事をして、夜真っ暗になってからそれぞれが思い思いのことをしたようです。かわなかのぶひろさんによる映像が残っている筈なのですが、真っ暗な中でみんなばらばらで勝手にやっているのをどう映像化できたのかはよくわかりません。残念ながら8ミリは劣化して見られない状態だそうです。

 

M:レストアできればいいですね。

 

S:アート・アンド・プロジェクトに(映像を)持って行ったという記録もあるので、もしかしたらオランダにコピーがあるかもしれません。

 

M:これ、冬もやっているんですね。

 

S:冬も、「山式」というのを。あと、ここにはその前の段階として、「最終美術への招待」とか「白い時の会」の資料があります。これらは長崎で河津さん、諏訪で金子昭二さんが企画したものです。ですから全て松澤さんのコンセプトが中心ということではなくて、このへんは本当にコミューナルな、やりたい人が自分で提案を作って、それに参加したい人が集まる、という。ここに「われらニルヴァーナ」という図があるのですが、ニルヴァーナのコア(核)がいくつもあって、それがゆったりとしたかたちで繋がって、ニルヴァーナの方向を見ているという、だからピラミッド型ではなく、こういう平面に広がって行く輪のようなものです。

 

M:この活動は他の日本でできていた、本当に共同生活していたコミューンとの関係はなかったのですか?

 

S:部族という(M:「カウンターカルチャーの雑誌を出していた」)ええ、その部族やおおえ・まさのりさんと松澤さんはかなり早い時期から交流があったようです。部族のナーガさんとか、詩を書いている人がいるのですが、彼の詩集などは全部松澤さんの蔵書にあります。あと、おおえ・まさのりさんは富士見の割と諏訪の近くに住んでらっしゃるので、一度おいでいただいてお話を聞いたのですけど、実際に「音会」などのイベントには参加されていませんが、松澤さんは彼等にとっては常に気になる存在だったそうです。

ですから、本やニュースレターを作ると松澤さんのところには送っていたということで、その辺の資料は大体あります。

 

M:日本のサイケデリック・カルチャーの歴史が書かれる時には必ずこのへんは出てきますね。

 

S:あと、このへんにはヨシダ・ヨシエさんがかなり関わっていて、ヨシダさんも「コミューン」的なものに興味があったので、この「人間と大地のまつり」にはニルヴァーナ関連の方達も関わって、松澤さんも作品を出しています。これはヨシダさんが主宰して、代々木公園を一昼夜借り切って、いろんなグループやコミューンー部族、パフォーマンス・グループ、山岸会、その他本当に地方で共同体を作っているコミューンとかーが集まってお店を出したり、イベントをしたりしました。夜は頭脳警察のコンサートがあったりしました。

 

M:特に、この10年間、アメリカではこういったサイケデリック・カルチャーのアート展を、ウォーカー・アート・センターなどでキュレーションし始めているんですよ。今までちょっと遅れていた、隠されていた歴史が少しづつもう一回掘り下げられていて、展覧会があったりしてるので、日本でもそのうちにね、ちょっと時間がかかるかもしれないけど。ジュリアン・コープというイギリスのミュージシャンが書いた「ジャップ・ロック・サンプラー」っていう本も、私にとっても重要な文献なんですが、日本のサイケデリック・ロック・ミュージックについてなんです。そういう文献が少しづつ増えていくのは大事なことですね。この辺の歴史を知るということは今まさに大事だという気はしますね。一つのカウンターという意味も含めて。

本当にもう一つの社会とか、行き方を目指していた人たちの考え方、感情というのは何だろうということは、まさに今の時代から眺める必要性があるのかなと感じます。

 

S:そうですね、松澤さんの「消滅」とか「反文明」も当時はなんとなくうさんくさいと思われたかもしれないけれども、今の方が緊迫性を持っていると思うんですね。オルタナティブの可能性というものを提示しているので。今オルタナティブを想像しにくい状況なので、このへんからいろいろなヒントなり、可能性が見つかるのではないかと。

 

M:今「反文明」Anti-civilizationという言葉が出ましたけど、実は、ヨーロッパではこういう思想を50年代から強く打ち出した人がジャン・デビュッフェなんですね。その後アール・ブリュット、今アウトサイダー・アートといわれる分野のパイオニアともいわれています。デビュッフェは50年代からAnti-civilizationもしくはAnti-cultureという思想の軸を強く作り出していて、アメリカでも講演したりしています。これを今読み返すと非常に面白くて、彼の場合は、それを最もよく反映するものとして、アーティストではない人が作るアート、いわゆるアール・ブリュットを持ってきます。「反文明」、「反文化」という動きは、20世紀の中で見てみると、いろいろなところで実は起きているという感じはすごくしていて・・・。

 

S:コブラも。(M:「もちろんそうですね」)アスガー・ヨルンというコブラの代表的なアーティストがいるのですけど、彼も後にフランスのシチュエーショニストと別れて、もっと子供じみた、自然回帰のようなスカンジナビア・シチュエーショニスト運動というのを(60年代末)はじめたりしています。それは50年代から70年代まで続いていますね。

 

M:(松澤には)やはりエコロジーの問題もどこかで意識されていた。あるいはヨーロッパで展覧会をする時にはそういう解釈でヨーロッパのアーティストが参加するとか、カタストロフィーとかAnti-civilizationと言うときは、その裏に近代文明に対する批判のポジションがあったのかと思います。まさにレイチェル・カーソン(「沈黙の春」著者)が書いていた時代ですからね。エコロジー運動が生まれる時代でもあったし。

 

S:特にここ(カタストロフィー・アート)ですけれど、シンポジウムがあって、そこで松澤さんがした講演もそのほとんど全てが、当時の環境問題に対する警鐘だったそうで、環境汚染のデータをー空気や水の汚染値を細かく並べたとあります。

 

M:「消滅」という言葉一つとっても、多分無数の解釈ができますよね、リアルな、エコロジカルな世界の消滅もあるでしょうし、宗教的に考えると、もちろんこれは密教を通じたりしてself-consciousnessの消滅というか、主体の消滅ということをカタストロフとして語っていたのかな、という考え方もありますよね。

 

S:これは「世界蜂起」というプロジェクトですけど、これも世界中のアーティストに対して、自分の思う「蜂起」というテーマで作品を作って送ってくださいというもので、第一次から三次まであります。第四次も始まってはいたんですが、途中で消滅してしまっています。1971年から73年頃までです。これもまだ、この他にも沢山(作品が)あります。

「世界蜂起」という非常に刺激的なタイトルで、政治的な意味も含んでいると思います。カタログにも書きましたけど、松澤さんは「世界蜂起」ということを単に言葉の遊びではなく、かなり本気で考えていたのではないか、と。

これも同じ志を持つ人たちが、物質的な革命ではなく、視覚の革命と言うのかな、それを今後250年続けて行って、最後にはルーブルになだれ込む、とアジテーションしています。

 

S:そしてそのあとの「ひらかれている」。これもカタログに書きましたけど、このポスターにいろいろな行為に対して「何故か」と問いただしていて、 「われわれはこうして人類を消滅させた」と結んでいます。これまでは「消滅する・消滅せよ」だったのに、ここでは「われわれ」が主語になって、かなり現実的な問題に対峙するという方向に向かっていたのではないかと思います。

 

M:やっぱり、松澤さんの作品を一通り考えて行くと、やっぱり、わかりにくい。一般の人から考えると、やはり高度な思想としてアプローチせざるを得ない。

 

S:「アート」として考えると本当にわからないと思うんですよ。今まではアートの中でなんとかつじつまを合わせようとすると、どうしても形式だけで、これはコンセプチュアルですよ、とかまたはフォルムを消して完全にスピリチュアリズムですよ、とかいうことになってしまうので、アートで無いところで考えるべきなのかと・・・。

 

M:私もやっぱり、われわれ鑑賞者がもう一度アクティベート(活性化)するものだな、と最近特に思っていて、そうすると美術館がはたしてそれに一番いい場所なのかという疑問があってですね、もしかしたらもう一度森においた方がいいのかもしれない。どうしたらこれをもう一度direct experienceとして戻すのか、そこは すごい先生がやったものだというだけではなく、その尊敬の態度はありつつ、毎回リアクティベートしないかぎり、これはガラスの向こうにあるものとして終わっちゃうのかな、という気もします。

 

S:やっぱりフルクサスとかも、ここにも作品がありますけど、特に欧米ではもう本当にガラスの中じゃないですか。

 

M:オノさんもね、インストラクションとか出してますけどね。

 

S:オノ・ヨーコとかフルクサスがブランドネームになってしまって、もうそれだけで価値があるものと決まっている。

この「ひらかれている」でもヨシダ・ヨシエさんが書いていますけど、反芸術というのは結局美術の枠を広げた、その定義を広げただけである、と。その枠を取り払って、どんどんドアを開けて行かないといけない、と。そのドアの向こうが何なのかは書いていないんですけどね。結語としてヨシダさんは「私はこれを再び美術に繋げてしまうことだけはしたくない」と言っています。ですから、今までのアートの枠に繋げてしまうことなく、今、この思想を別の形で繋げて行くのはどうしたらいいのか、ということはこれからの、というか私たちの課題ですね。

 

M:それと同時にやはり時代性を感じるところもあって、物質消滅ということも実に60年代っぽいな、と。そこまで厳しくする必要性ももしかしたら今の時代には無くて、いろいろな可能性を通してやっていくのもありなのかと思います。一つの強い反美術的なポジションをとる上でそれを言う強さはあるのですけど、そのへんは変わって行けるような思想なのかな、とも思っています。

 

S:そうですね、これは田中孝道さんがカタストロフィーについて書いたエッセイの中にあるんですけど、カタスロフィーの中に、エコロジーに関しての非常に直接的なメッセージはあるんですけど、それだけではなくて、やはりカタストロフィーとニルヴァーナは、父と母の関係であり、表と裏という関係で、カタストロフィーあってのニルヴァーナ、ニルヴァーナあってのカタストロフィーで、ニルヴァーナからカタストロフィーへ(展覧会タイトルはそうですけど)と一方的に破滅、消滅に進んで行くものではない、と。常に循環していく、という、一種の宗教観というものがありますね。

 

M:そうですね。

 

ではここでおみえになっている皆さんからコメントとか、質問を・・・。

 

質問者:「消滅しよう」という言葉を、反語的にとらえるのか、ストレートにとらえるのか、意見がそれぞれの方によって違うと思うのですが、嶋田さんは本の中では反語的だとおっしゃっていて、僕はどっちでも松澤さんにとっては変わらないと思うんですけど、反語的と言える理由ってどのようにお考えなのか?

 

S:反語的と言ったのは、今も言いましたけど、カタストロフィーからニルヴァーナ、またはただ消滅へ、というリニアーな一方通行的な思想ではないということですね。またはそれを言ったことによって、ニルヴァーナという思想が甦るというように循環する思想だと思います。ですから「消滅しよう」を単にストレートにとらえるのではなくて、そこからまた戻ってくるという可能性を持ちながら解釈すべきだと思います。

 

M:私はself-consciousnessを消滅せよ、という一つの教えというかんじでとらえているので、これは1900年にモリス・パックという宗教学者が言ったことですけど、みんなは普段はself-consciousnessというレベルにいて、常にcosmic consciousnessに行きたがっている、と。まあほとんどの世界宗教はその意識から成っていて、self-consciousnessの狭い意識状態から解放されたい、これが人間の欲望の一つではないか、と。まあそういう解釈もできるのではないかな。Spiritual traditionからの意見ですけど。

 

S:それは先ほどのコミューンの話にも繋がって行くのかと思うのですが、あそこに「フリー・アート」とありますけど、そこでは作家性を棄てる、展覧会名も棄てる、とあって、やはり、コミューン的に、それぞれのコアを持ちながらコミューン自体が、一つの自由なアートのあり方になるのではないかなと思います。

 

M:そのスケール感で松澤さんがアートを語っていたということ自体が非常に魅力的ですよね。今の時代、実はそんなに無いのかもしれません。美術大学などでも、そのような考えは。その意味ではモダニズムの一番重要で面白い、忘れてはいけない部分を教えてくれているのかなと思います。それを、今だからそういうことをできない、考えられないというのはすごく間違っている。21世紀型にどうやって消滅するか、cosmic consciousnessにどうやってアートからアプローチできるか、というのはわれわれの世代の課題なので、それはやっぱりボキャブラリーの問題でもあり、どうそれを語ればいいのかということを、世代を超えて考える必要性があるなと感じます。過去のこととして語るのではなく。

 

M:私も諏訪から山を越えたところでフェンバーガー・ハウスという小さい個人美術館を夏だけ運営しています。それは松澤さんの思想にもインスパイアされていますし、まさにdirect experienceというものを、はたしてアートスペースの中で取り戻せるかということ、それが私のやろうとしている大きな文脈なんですね。それは例えば視覚芸術だけではなくて、音楽を聴いたり、いろいろなワイルドなワークショップをやったりするんですけど、そういう実験をしています。うれしいことにすぐそばにプサイの部屋があって、松本には草間作品もあるし、長野はアーティスト多いですよね。でも、それほどアート・ツーリズムに飲み込まれてはいないところもいいなと思って。コツコツとやっています。

 

あと、AITという学校でも活動していて、そちらでも6月に諏訪に行くツアーを企画しています。松澤邸に行ってプサイの部屋ものぞけるという。その後、スワミニズムという縄文研究グループの先生方と一緒に霧ヶ峰の方に行って実際に現場を見て、二日目はフェンバーガー・ハウスでいろいろワークショップをしようという二日間のツアーも企画しています。

また、12月には嶋田さんに今度はアーティストとしてトークしていただきます。

 

池田:では、このへんで。本日はどうもありがとうございました。

 

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・展覧会名 「ニルヴァーナからカタストロフィーへ —松澤宥と虚空間のコミューン」

・会期 2017年3月3日(金) ~ 4月22日(土)

・会場 オオタファインアーツ(東京都港区六本木6-6-9 ピラミデビル3F)

 

http://www.otafinearts.com/ja/exhibitions/2017/post_118/

 

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