アンデパンダン・アート・フェスティヴァル シンポジューム
(1965年8月15日 岐阜市商工会議所)

「現代において芸術は可能か」 松澤宥

私はこの私の報告を大変不思議な話から始めなければなりません。どうぞ冷静に聞いて下さい。動揺を避けて下さい。知的に判断を下して下さい。こういう話に対する反応の仕方はいろいろあると思います。「そんなことがあろうはずがない」と、そういうことの可能性を全く否定して頭から問題にしない人たち。次はむやみに狂信的になってしまって手軽な神秘主義に陥る人たち。それから現在の我々の持っている知識では肯定しかねるが、又否定する確たる根拠もない、従ってこれからその事実に率直に謙虚に対処していこうとする態度です。私はこの第三の態度-こういう人は意外に少ないのだが-が新しいものに対処する正しい態度であると思います。
さて皆さん!この開場の中に!地球外の天体から来た宇宙人が三人おります。この席から見ますとそれがはっきりわかります。そこだけぼーっとハロー(復光)がとりまいています。この事実を皆さんはどう考えられますか。
皆さん、ちょっとお待ちください。私は約8年前に滞米中ニューヨークで経験したことを、唯今再現してみたのです。これについて私は若干の説明を加えなければなりません。それはこういうことです。
当時ブロードウェイ沿いのアパートに住んでいた私はある夜半に何となくラジオのダイアルをあっちこっちと回していました。ほとんどがホットやクールのジャズであったが、その中にひどく真剣な口調で不思議なことを論じ合っているステイションがありました。すぐにわかったのだが、それは隣りのニュージャージーのWOR局だったのです。それはタレントのロング・ジョン氏を司会者とするパネルディスカッションであり、心理学者と物理学者とフライング・ソーサーズ研究者をパネル・メンバーとし毎夜次々と医学者、生理学者、占星術家、霊媒、ヨーガ哲学者、催眠術家、あるいは著名人らがゲストに迎えられて、リインカーネーション(死後生存)はあり得るかとか、レヴィテイション(物体浮遊)とかテレポーテーション(物品引き寄せ)とかテレパシイ(無媒介伝達)とかの超常現象とかまた地球地核内で生活する種族とかの不思議なことについて午前一時から午前5時まで実に真剣に熱心に討議されるわけです。それがいく回もいく回も続くわけです。そのために私の生活は夜半から夜明けまで起きてその放送を聞き、昼間は寝ているという変調な形をとることを余儀なくされていました。そのプログラムはWOR局をキーステーションとして全米の20余州に向けて中継されていました。その放送を始めさせる契機となった実に不思議な話があるのです。それについて少しお話ししましょう。
ニュージャージー州のハイブリッジという小さな村にミスタ・マンジュというサイン・ペインター(看板屋さん)がおりました。或る日変な気分に教われて家の中での仕事を続けることができず表に出ました。何かが彼を導いてゆくのです。彼の足はだんだん裏山に入ってゆき、とある林の中の岩の上に年の頃24、5歳のこの世のものと思われない程チャーミングな女の人が座っているのを見つけました。一瞬立ち尽くして見とれている彼に、その女人はにこやかに微笑みかけながら言いました。「私は20年前にあなたにここでお会いしました。」マンジュ氏は鮮やかに思い出しました。まだほんの子供の頃、やはり何かに引っ張られるような気持ちでこうして林の中にさまよいだし、その中の岩の上に24、5歳の大変美しい女の人を見つけて見とれたことを。〈その20年も前の女と私は同一人物です。私は金星からやって来ました。私の年は500歳!〉
この日以後マンジュ氏はしばしば空飛ぶ円盤を目撃し又円盤人と交渉を持つようになります。こうして彼はアダムスキイらと共に円盤史上代表的なコンタクトマンになり、彼のさまざまな経験は所謂コンタクト・ストーリーとして流布されるわけです。
ところで或る夜の放送で話題の主のマンジュ氏の「私の不思議な経験」と題する講演会が来週しかじかの日にブロードウェイ93丁目の或るクラブで催されることが予告されました。私は「これはチャンスだ。かならずでかけよう。」と場所まで確かめました。ところが当日何か他に夢中になることがあったのかすっかりそれをど忘れしてしまった。大変残念でした。翌日のディスカッションで早速当夜のことが放送されました。その時、マンジュ氏はおよそ300人程の出席者の前で「この開場の中に!地球外の天体から来た宇宙人が三人おります。この席から見ますとそれがはっきりわかります。そこだけぼーっとハロー(復光)がとりまいています。」と云ったそうです。すると参会者たちはお互いに前後を見回してどれが宇宙人かと気味悪そうな表情をしてうかがったとのことでした。
私の話の冒頭に出て来たのはこれだったのです。

話がだいぶ詐術めいて来たでしょうか。〈現代において芸術は可能か〉という今日のテーマに対して私の話は無関係すぎるでしょうか。まして私はこのテーマの提案者でもあるのです。〈現代において芸術は可能か〉というテーマに対する正しい報告者の態度としては、先ず〈現代〉というものの状況を述べてそれを綿密に検証し、分析し、次に〈芸術〉というものの意味を考察し、そしてこれこれこういう現代においてこれこれの意味と機能を持つべき芸術は栄えうるかどうかということを縷々と述べたててゆかなければならないでしょうか。
皆さん。シンポジュームとは古代ギリシャの酒宴だそうです。その言葉の本来の意味に免じて酒こそないが、せめて羽目をはずした話をさせていただきたいと思います。

今東海道新幹線で東京から大阪まで4時間で走っています。そのうち3時間で走るそうです。2時間で走ることも可能になるでしょう。そして1時間でも。。。ところが、若し午前7時に東京を出発した列車「ひかり」が大阪に午前3時に着いてしまったらどうでしょうか。ウシミツドキに。それよりも東京を出発して新幹線を走って大阪に着くべき「ひかり」が大阪どこではない脱色されたもやもやした霧のような、脱色されたドロドロした乳のような、脱色された形のない見えないものの中に到着してしまったらどうでしょう。

電子計算機で美容相談をし、結婚相談をし、進路相談をするような都合の良い時代です。電子計算機のデータを貯蔵し分析する能力が質的にも量的にもますます開発され、人間の考え得るかぎりのことは全部やってしまう、生産の分野においても、経営の分野においても、政治の分野においても。そう。300人の政治家が知恵を絞って3日もかかって騒々しく論議してまちがった結論を出すようなことを電子計算機はいとも静かに3分もかからずにこの上も無く適切な結論を出してくれるでしょう。
我々は現在より多くのエネルギーを必要としています。より多くのエネルギーの助けを借りています。これが文明です。本当はこれではいけない。段々エネルギーなどいらなくなり、静かに瞑想をしていればよいのですが、仕方ありません。我々が新しいエネルギー源として手に入れたのがご存知原子力です。今から10年前1955年ジュネーブでの第一回世界原子力平和利用国際会議で議長のインドのバーバ氏は「1975年ころまでに人類は核融合反応によるエネルギーを利用することができるようになるだろう」と述べています。
H・G・ウェルズが1933年に著した「最終革命究極革命」という副題をつけたユートピア小説「来るべき世界の事物の諸相」は出版当時から言えば170年後の2106年に立ってレーブン博士という仮想の人物が振り返って世界の諸相を過去形で述べた、今1965年からすると尚未来を述べたことになりますが、ある意味の予言の書であります。H・G・ウェルズは昭和8年
にこれを書いておりますが原子爆弾の出現を予言し、日本にそれが二箇所に投下されると述べているのには驚かされます。その本でただいま1965年はどのように描かれているかと申しますと、人類は既に最終戦争を終わり世界国家が誕生した都市とされています。それはバスラというところで科学者、技術者が第一次会議を開き、一般的人類間に確たる計画を示し、それを実行する組織に着手した最初のもので、歴史家はそれを世界国家の誕生に関する主要な日としていると述べています。そしてそのときには世界のエネルギー資源の入手出来るものは全て取得開発し、国際間の通貨方式は新しいエネルギードルというものが考えられ、金本位のやり取りとりでなく、エネルギー本位の国際間やり取りがなされると書いています。そう、核融合エネルギーは瞬間ではなく継続的に取り出せるようにならなければなりません。瞬間的に取り出すことは人殺し爆弾に利用出来るくらいが関の山で、そうだったら、日本列島をたった3発でおおい尽くすようなのが出来ており、各国で保有している弾で十分に地球全部をおおい尽くすことができるというナンセンスなことを人間はしているわけです。

サターンVというのは35階建ての建物ほどの高さ、重さは3400トンのロケットで、それによりアメリカは1970年までに3人乗りカプセルを月に送ろうとしています。ソ連は1967年の革命50周年記念に月に人類を送り込むことを発表しています。ソ連のアレキサンドルコルパコフによれば百数十世紀の未来には相対性人と呼ばれる人間が数千年前の地球を出発して宇宙を回って帰って見ると地球では数千年が経過している。地球の一般人とはかけはなれてしまっているのでヒマラヤ山中の永遠市と呼ばれる基地で隔絶した生活を送っている。そのころ用いられるロケットはアナイレイション・ロケット(消去ロケット)と呼ばれ、あらゆる物質のエネルギーを完全に非物質化させて光子に変えて噴射するとのこと。
私は恐らくそのころになれば、思念全能により時間・空間を超越して宇宙を遊行することができるようになることと思います。ということは人間は静かに座して瞑想していて宇宙を遊行しなくなるのだと存じます。つまり宇宙を飛び歩くことのエネルギーを自己の内に保有して宇宙の空なることを瞑想しているのではないかと思うくらいです。静座しうつろな半眼で前方を見つめながら「これが
と指呼している人間。それが永遠人間の真の姿であると思います。

眼に見えるものはつまらない、眼に見えないものを信じよと私は叫びたい。
隠された見えない柔らかいものを信ぜよと。それを見たいのだ。そして恐らくその隠された部分を絶えず感じているだろう。誰でもそうなのだ。と私は思う。
或るとき、その見えないものが現れてくる瞬間があるだろう。そのとき以来人間の歴史は全く変えられるだろう。なぜならば、人間の生きることの意味のすべてはその見えない隠された大事な柔らかい部分を眼で見ずに、感ずることにあったのだから。

人間の歴史は変えられなければならない。その見えない隠された柔らかい一番大事な部分とそれをおおう物質と精神のことそれに対するフェティシズム。

唯今はそういう時代なのだ。巷にあふれる多量の小さい死をほんものにするために見えないものを暴き見なければならない。そして見えないものを持っている者はいさぎよく見せなければならない。